各線梅田駅が誕生して以来、ミナミに続き、キタにもたくさんのステージが生まれていった。その一部を紹介したい。

スポーツ観戦の舞台と

しての北野

 北野地域とスポーツとの接点は若い人にあまり知られていないが、扇町公園のあった場所にかつて(旧)大阪プールという名で、大きな大会が開催できるような場所があった。実際にそこで新記録が誕生している。


 昭和25年(1950)に日米国際水泳選手権の開催のため、5ヶ月の突貫工事によって建設された。開場記念として、水泳の日米豪国際選手権が開催されている。屋外でナイター照明も設置されており、また、U字型の巨大な観客席(約2万5千人)を備えていた。このため、ギネスブックに「最も観客収容数の多いプール」として掲載されていたこともある。スタート台に背泳用の握り手を設置したのは日本で当プールが最初であった。 旧大阪プールでは国際的な水泳大会を始めとして、プロレスなどの各種のスポーツイベントが開催され、浪速のスポーツのメッカと謳われた。現在の扇町公園には旧大阪プールを偲んで、プールで使用されていた競泳スタート台がモニュメントとして設置されている。



ダンス観戦の舞台とし

ての北野

 スポーツの舞台といえば、北野界隈にはダンス教室が多くある。趣味や健康のためのダンス教室もあるが、北野地域でのダンス教室はスポーツ競技としてのダンスとしての顔が色濃い。兎我野町にあったワールドダンスホール前でダンス教室をされていた、ダンス教室北村(現在は同じ町内で移転)の北村良一さん(77歳)にお話を聞いてみた。


 「このピカデリー跡に移ってきて35年になります。中崎町の大東洋の裏に能楽堂がありますでしょう。その角ぐらいにシャンクレールというダンスホールがあり、そこに10年いました。梅田周辺にはダンス教室がたくさんありましたよ。老松町ぐらいまで教室がありました。阪急東通商店街にスターズというダンス教室がありましたね。「フォーカルポイント」というダンスホールがありまして、天井がぱっと開いて空が見えるんですよ。富士というところもあったけれど、みんななくなってしまったね…。シャンクレールにいたときは北野劇場近くで屋台を出していた揚子江ラーメンによく行きました。夜中12時ごろに一杯食べて帰るのが楽しみで、すごくおいしかったです。 それから扇町のほうのビルに共同経営で移ったんですが、人通りが少なくてさびれているのもあって、兎我野町に移ったんです。ワールドというダンスホールのネオンがあって、やっぱりこう、ネオンとかあると人が寄ってくるんでしょうね。


 ワールドというダンスホールは、プロのダンサーが在籍していて、チケットを買えばダンスを教えてくれるんです。そうでない人は席に座ってビールを飲んで楽しめます。その中で同伴者といっしょに踊って楽しむんです。


 一方で私たちが教室で教えているのはスポーツダンスです。競技会が体育館などで行われていて、世界大会に出たり、プロの競技会を手掛けている。いつかはオリンピックに出るだろうという期待をもってやっている。


 昔はダンスホールの社交的なダンスが流行っていたのが、今ではどんどんつぶれていってスポーツダンスが主流になった背景があります。


 でも最近またダンスホール形式のところが増えてきています。理由はわからないけれど波があるんでしょうね。これから小さな(記事抜け分確認)

音楽の舞台としての北野

 堂山町の喫茶店には、近くのクラブアローの演奏者がよく休憩にきたと語る。クラブアローとはいったいどんな場所だったのか。アロージャズオーケストラの記念誌にはこんな記述がある。「昭和33年(1958)6月15日午後7時。国鉄大阪駅から東へ約10分の堂山町にできた新しいビルの中は、興奮に包まれていた。クラブに専属するタキシード姿のバンドマンたちが高らかにファンファーレを演奏した。ナイトクラブ「クラブアロー」の開業である。バンド名は「北野タダオとアロージャズオーケストラ」。

 クラブアローにとってAJO(アロージャズオーケストラ)は必須ツールだった。「ナイトクラブ」は音楽やダンスなどのショーを主体とする紳士淑女の社交場だからだ。男の遊び場「キャバレー」とは趣を異にする。アローは3階建て延べ730坪。巨大なフロアには100人以上入るボックス席が並び、石灯籠と滝を備えた300坪の日本庭園がトレードマーク。料金もけた外れだ。チャージ料が7千円。飲食代を加えると一人1万円は超す。大卒サラリーマンの初任給が約1万3千円の時代である。何もかもが一流であることがアローのコンセプトだった。 クラブアローのような高級クラブとは対照的に、庶民が音楽を楽しんだ場所は前述の章でも述べた喫茶店である。当時、喫茶田園で演奏者として出演されていた、神山町のスペイン居酒屋グラナダの中野さんにお話を聞いてみた。


 当時私は広告代理店の営業マンとして働いていたのですが、同期入社の友だちがラテン音楽をやっていましてね。仕事終わりに二人で音楽活動をしていて、梅田花月で開催されていた毎日放送の「素人名人会」などの素人番組に出たりしていました。営業の仕事をしていたので、どこか売り込もうか、と言って喫茶田園にも行きました。お店ではタンゴとかハワイアンが流行っていましてね。宮城さんという支配人の方がいらっしゃってオーディションしてくださりました。メキシコオリンピックが近づいてきたためか、ラテンブームが起きていました。それでトリオ・ロス・パンチョスという3人組のベサメムーチョという曲などを演奏させていただきました。北新地にあったメキシコ料理屋のエルパソという店でも演奏させていただいてましたね」。


 その頃の中野さんは朝から就業時間まで広告代理店で働き、仕事場の尼崎から梅田まで出て19時からの田園のステージに立ち、21時からのエルパソのステージに立って演奏していたという。「まあ若かったからできたんでしょうね(笑)。僕の印象では昭和30年代までは国別の音楽が入ってきたという印象ですね。例えばイタリアのカンツォーネとかフランスのシャンソンとか。一番強いのはやっぱり英語圏の歌でアメリカンポップス。といっても当時は日本語に訳して唄われていました。ベンチャーズ作曲演奏の「京都の恋」を日本語の歌詞で唄って大ブレイクした渚ゆう子さんも喫茶田園のステージにおられましたよ。お兄さんがハワイアンバンドのベースを弾いておられましたからね。まだまだ全国的に知られていない頃でした」。

北野とライブハウスの話

 クラブアローや喫茶田園が閉店しても、北野界隈の音楽の灯は消えなかった。昭和56年(1981)には堂山町にライブハウス「梅田バナナホール」が誕生する。関西のインディーズバンドや音楽ファンにとって一種の登竜門として存在し、年間約6万人が訪れる人気ライブハウスだった。


 プロ・アマチュアを問わず、ジャンルもポップ、ロック、ブルース、ジャズ、フォーク、民族音楽と幅広く受け入れ、多くのミュージシャンの通り道、また人気の火付け役にもなった。近年では、お笑いのライブなども行われた。 通常、ライブハウスでは客席とステージの間に安全のための柵が立てられるが、バナナホールでは柵のかわりに樽がいくつか置かれており、バナナホールの名物とも言わた。時にはステージに立つミュージシャンがこの樽の上に乗り、パフォーマンスを繰り広げた。


 しかし、平成19年(2007)9月17日にバナナホールは閉館し、約26年間の歴史に幕を閉じた。現在、同じ場所にはライブハウスの「umeda AKASO」が建っている。 この「梅田バナナホール」を経営していた高木さんはこう語る。「昭和56年の30代の頃かな、たまたま遊び友だちに音楽関係者やマスコミ、広告会社の連中が集まってきたんです。兎我野町で貸しビル業もしていたし、堂山町にあったハコでも何かしてみようかなと盛り上がりました。当時、大阪には若いお客さんが小遣い程度で入れる気楽なエンターテイメントの場所がなかったんです。キャバレーはありましたけど高いので若い人は行けないでしょう。ジャズとかロックに特化したものはあったものの、オールマイティなジャンルを扱って、演奏する側が満足できるような装置がなかった。それで本格的な照明と音響装置を用意し、楽屋もつくって、演じるほうが満足できるものをやろうとはじめたんです。


 ちなみに最初のステージはクラリネット奏者でしたね。コアなファンが多かった。バナナホールの知名度がなくて最初の1年ぐらい苦労しました。


 1年半ぐらいして当時、新人バンドのサザンオールスターズがブッキングされたんですが、偶然テレビ番組の「ザ・ベストテン」のテレビ中継がありました。黒柳徹子さんと久米宏さんが司会の音楽番組です。「勝手にシンドバッド」が一位になったときに中継することになって、それがきっかけで、大阪に面白いところがあると東京に広がったんです。ほんとに時代が良かった。そうこうしているうちにプロのデビュー戦に良い小屋があるぞ、と『安全地帯』や『チェッカーズ』『徳永英明』『プリンセスプリンセス』など、大阪でプロモーションするための場にしてもらうことができました。ミナミにもビッグキャット、なんばハッチ、心斎橋クアトロとか増えていきました。バンドブームでしたね」。


 順風満帆に見えたバナナホールは平成19年(2007)に閉館した。「平成に入ったぐらいからかな。音楽業界がシステム化されていったんですよ。メーカーがあって、アーティストの所属事務所があって、イベンターがいて、ライブハウスがあって、という構図の中で、イベンターさんがブッキングをコントロールするようになったんです。ライブハウスは情報をこちらからセレクトして発信していたものが、川下になっていったんです。そのあたりから面白くなくなっていきましたね。だから閉めました」。

演芸、演劇を見る

舞台としての北野。

 演芸の舞台といえば、昭和44年(1969)に現在のヘップナビオの一角に演芸場「トップホットシアター」開館した。昭和52年(1977)閉館。吉本興業の梅田花月や松竹芸能の道頓堀角座などが人気の中、第三の勢力として芸人が活躍する場所だった。 また、昭和60年(1985)に神山町の扇町通り沿いに扇町ミュージアムスクエアが誕生した。今でこそ人通りの多い地域だが、当時勤めていた方曰く、休日の扇町通りにⅠ時間立っていても、前を歩くのは犬一匹だけというぐらいの人気のない町だったという。しかしこの扇町ミュージアムスクエア、通称OMS誕生から若い人たちが足しげく通う場所となった。


 OMSは小劇場、ミニシアター、雑貨店、カフェレストラン、ギャラリーを備えた複合文化施設であり、関西演劇界の稽古場のような場所だった。劇団☆新感線、南河内万歳一座、リリパット・アーミーなど関西の劇団が活躍した。


 OMS以前では、阪急ファイブのオレンジルームが小劇場のメッカ的存在だった。しかしその勢力図はどんどん扇町に流れていくことになる。オープン2年目からぴあ関西版の編集部が移ってきたこともあり、マスコミ関係者も多くなり、有名タレントもたくさん訪れる場所となった。ガラス張りの空間で外から中が見える環境のため、外からの見物客も多くなった。マスコミからはシースルー現象と呼ばれるようになった。常にいろんな人が出入りしていて、雑談からすぐに「何か」が動き出しそうな空気にあふれていた。平成3年(1991)に「ギルドギャラリー」が新設され、当初ギャラリースペースとして立ち上がった「コロキューム」が常設のミニシアターとして平成4年(1992)にリニューアルされたことで、OMSはその輪郭をいくらかはっきりしたものにしていった。しかし建物の老朽化にともなうビルの解体のために、平成15年(2003)3月に閉館されることとなった。

多様な人たちの

受け皿となるまち、北野。

 平成25年(2013)に扇町公園を舞台に、セクシュアリティの多様性を祝い、さらに社会に発信する場として「関西レインボーパレード」が開催された。当日はLGBTや性同一性障がいをはじめとする多様の性的マイノリティ当事者やその家族友人などが多数参加した。 性的マイノリティな方の受け皿となるようなショップが堂山町を中心に数多く点在し、外国人観光客向けのガイドブックに掲載されるなど、国際的な観光スポットとしても人気を博している。また新宿二丁目のように特化されてはいないものの、西日本最大のゲイ・タウンとしての顔も持ち合わせる。関西の深夜番組でよく登場されているジャックアンドベティなどは、ニューハーフの方たちが美しくも刺激的なダンスを繰り広げている。